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牧野富太郎が東大の植物学教室を出入り禁止になった理由

2023年05月05日

現在NHKの朝ドラ「らんまん」のモデルになっている高知出身の植物学者の牧野富太郎氏についてですが、氏の有名なエピソードとして、28歳のときに東京大学の植物学教室を出入り禁止になったというものがあります。

その理由は何故なのか、探しても出てこなかったのですが、牧野富太郎氏の自著にその理由について書かれていたので、ここに抜粋しておきたいと思います。

理由は矢田部教授のライバル心

理由としてですが、この当時の東京大学の植物学主任教授であった、矢田部良吉教授のライバル心からであったと思われます。

矢田部良吉教授
矢田部良吉教授

牧野富太郎氏についての著書「植物と心中する男」について、以下のような記載がありました。

私が土佐の山奥から、上京して、この植物学教室に出入りするようになったのは明治十七年のことであったが、その頃、この教室の学生には、三好学、岡村金太郎、池野成一郎などがいた。

矢田部教授は、「四国の山奥から、えらく植物に熱心な男がでてきた」というわけで、非常に私を歓迎してくれ、自宅でご馳走になったこともあった。

ところが、明治二十三年頃、矢田部教授は突然、私に宣告して言うには、

「お前はちかごろ、日本植物誌を刊行しているが、わしも同じような本を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も、標本も見せるわけにはいかない」

というのである。私は呆然としてしまった。私は、麹町富士見町の矢田部教授宅を訪ね、

「今、日本には植物を研究するような人はきわめて少数である。その中のひとりでも圧迫して、研究を封ずるようなことをしては、日本の植物界にとって損失であるから、私に教室の本や標本を見せんということは、撤回してくれ、また、先輩は後進を引き立るのが義務ではないか」

と、言葉を尽して懇願したが、矢田部教授は頑として聴かず、

「西洋でも、一つの仕事のでき上がるまでは、他には見せんのがしきたりだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室には来てはならん」

と、けんもほろろに拒絶された。私は大学の職員でもなく、また学生でもなく、ただ矢田部教授の好意によって、教室出入りを許されていただけなので、この拒絶にあえば、自説を固持するわけにはいかなくなったので、悄然として「狸の巣」といわれた私の下宿にもどり、くやし泣きに泣いた。

牧野富太郎氏についての著書「植物と心中する男」より引用

上記の内容から推測すると、最初は面白い男が来たということで、矢田部教授は好意的に牧野氏に接してくれていたものの、次第に同業のライバルとして、自分の立場を脅かすように感じたのではないかというかんじがします。

矢田部教授については、牧野氏以外の有名な学者も植物学教室を出入り禁止処分にした有名な話として、「破門草事件」というエピソードがあります。

このように、矢田部教授は植物界の大御所でありながら、自身が学者として名を馳せるため、他人との競争心が強い人物であったことがうかがえます。

後日談として、矢田部教授は、牧野氏を出入り禁止にした2年後の明治二十五年に突然東大の教授を罷免されます。理由としては、当時の東大の総長であった菊地大麗氏との権力争いからと言われています。

また、東大教授を罷免された年の七年後の明治三十二年、遊泳中に溺死して非業の死を遂げたということです・・・。

こうしてみると、大学教授や学者というのも、権力争いや名声を得たいという欲があったりして、なかなか大変な仕事だなと思いますね。

↑上記の記載があった牧野氏の自著「植物と心中する男」はこちら

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